Dvorak
Slavonic Dance in E minor Op.72-2
他の収録曲
ラフマニノフ/ストコフスキー 前奏曲 嬰ハ短調 作品3−2 「鐘」
ショパン/ストコフスキー マズルカ イ短調 作品17−4
シューベルト/ストコフスキー 楽興の時第3番
バード/ストコフスキー ソールスベリー伯爵(パヴァーヌとガイヤルド舞曲)
チャイコフスキー/ストコフスキー 無言歌 イ短調 作品40−6
チャイコフスキー スラブ行進曲
クラーク/ストコフスキー トランペット・ヴァンタリー
デュパルク/ストコフスキー 法悦
リムスキー=コルサコフ スペイン奇想曲
演奏は「いずれも菖蒲か杜若」と言いたいところだが、これがトンデモ演奏の
オン・パレードと言っていいだろう、すさまじいシロモノである。大いに頭痛
に悩まされる事を約束していいだろう。ショパンがワーグナーに変身したりす
るのはまだ序の口。冗談ともマジメとも見当のつかないトランペット・ヴァン
タリーでのウッド・ブロックや「人種のるつぼ」アメリカを連想させる、無国
籍的な楽興の時。しかし、それらは真打には違いないが、まだトリを打つのに
は不十分である。
ストコの芸風の一面をすべからく表出した、オオトリにふさわしいのは、この
スラブ舞曲である。これっきゃない!!
ここでストコはまたしても、素朴に近い郷愁を表現しようなんて気はさらさら
ない、B級ハリウッドの「悲恋もの」化することに成功している。その強弱を
強調というより誇張した、そして弦はチョコレート+ガムシロップのねっとり
として舌にからみついてなかなかとれない、ヴィブラートの嵐。これは、あく
まで現世的で、まるで、恋人と別れた厚化粧の女がネチネチと過去の思い出に
浸っているような演奏だ。これを助長させているのが、天下のフェイズ4、マ
ルチ・チャンネル録音だ。スピーカーの表面から流れるヴィブラートたっぷり
の弦の響きは、もはや1930年代のユニバーサル映画の怪奇もの映画のようだ。
さらにこれがまた天下のチェコ・フィルときているから始末が悪い。
チェコ・フィルと言えばターリッヒ→アンチェル→ノイマンという流れの中で
徐々にローカル色を脱しつつあったとは言うものの、一挙にニューヨークのダ
ウンタウンの場末の映画館に漂着するとは思いもよらなかっただろう。まして
や、ドヴォルザークはチェコ・フィルにとっては絶対の自信と確信があったは
ずだ。そんなチェコ・フィルにストコは完全な自信で自分の解釈を貫き通して
いる。その意味ではすごいっちゃあすごいんだが、ありがた迷惑そのものだ。
一体、どんな気持ちで奏者は演奏していたんだろう。どんな気持ちで聴衆は聴
いていたんだろう。演奏後の拍手(ブーイング?)がそっくりカットされてい
るので、想像するしかないが、少なくとも好意的には聴いていなかったはずだ。
この時のチェコ・フィルとの演奏はこの他にもバッハものや「法悦の詩」「エ
ニグマ」が録音されているが、今一つシックリいっていないような感じを受け
る。それは意志の疎通が今一つ成功していないことの表われに思える。そう言
えば、1961年のチェコ・フィルとの「革命」も今一つだった。
ストコフスキーはどんなオーケストラもまるで自分のオーケストラのように操っ
た。客演の時すらも。アメリカのオケはもとより、イギリスやドイツのオケも
ストコフスキーの手兵のような演奏をした。その意味では、ストコがチェコ・
フィルを自らの価値観で洗脳しようとした、壮絶な記録と言えなくはないだろ
う。(どうせだったら、チェコ・フィル相手に、新世界交響曲をやってほしかっ
たと思うのは私だけ・・・・だよね)